07:凍てつく雨





 どこかでふくろうが鳴いている。田舎の、しかも誰も寄り付かないような鬱蒼とした森だから、そういうことはごくごく自然である。プログラムに選ばれたモトキが亡くなってから4日目の夜、ハルヒサは特に大した目的もなく、おぼつかない足取りで山へと向かっていった。その手には小さなリュックサックが力なく握られている。中には何が入っているのだろうか、おそらくたいしたものは入っていない。 彼は雨にぬれて頭皮に張り付いた色素の薄い髪の毛をかき上げ、そして死んだ魚のように濁った眼で足元の砂利を眺めた。
 

 ついに独りぼっちになってしまった。
 彼は心の中でつぶやく。中学3年生にして国の方針によって命を奪われるというあるまじきの愛別離苦によって、彼の体はきつくがらんじめにされていた。身動きの取れない彼に寒々しい雨はひたすらにそのしょげた肩を叩く。それはさらなる苦痛を上乗せするかのように。
 
 
 ハルヒサは血のつながった親には捨てられ、モトキは死に、ミョーコには裏切られた。
 つまるところ、彼をこの世とつなぎとめておく唯一の絆が断たれたのだ。もう、何も残ってやしなかった。

 アンドウハルヒサの存在は、ついに虚無と化してしまった。
 こんな時、学力か何かで誇れるものがあれば、きっと人生は明るいものだったのだろう。だが彼に与えられたものは他の人より少しだけ大きい身長と、他の人より少しだけ喧嘩が強い、これくらいである。悲しかな、この能力があるだけで、彼の15年の人生が一般人の歩く道とは大きく枝分かれしてしまった。
 中学3年生にして人生は終焉を迎えつつある。絆に裏切られたショックは、思春期の人間には最も大きな攻撃なのだ。迎撃する術も知らず、ただ為すがままに攻撃を受けるしかないということは、最も大きな屈辱でもあった。

 人間は社会や人とのつながりを断たれた時、独りになる。自分の価値観を周りと比べることもできず、自分がこの世界の中でどんな存在であるかもわからず、そうして人は負の渦中へと身を投じる。一体全体、自分は何のために生まれ、何のために生きているのだろうか。自分の存在に果たして意味はあるのだろうか。孤独となった今では、問いかけても誰も答えてはくれない。


 ふっと眼を閉じてみる。信頼していたミョーコは、知らないほかの友達とともに笑顔を浮かべていた――それを思い出すと臓腑の底から火が燃えたぎるような思いがした。モトキがプログラムで亡くなってからというものの、彼の前では泣き顔しか見せていなかったミョーコが、笑っていたのだ。自分以外の誰かの前で。
 本来ならば、最初に彼女が笑うのは彼の前であるべきだった。悠久も"一緒にいてくれる"澪子のために強くなろうと決心していたのだ。それなのに、なぜあそこまであっさりと彼女はなぜ笑うことができたのだろうか?
『俺以外に笑顔を向けていいのか?』
 悔しかった。悲しかった。――寂しかった。


 彼はぼんやり照らされた街灯を眺めた。先刻から降り始めた雨はついに強さを増し、カッターシャツじんわりとしみを作っていった。侵食したしみはどんどんシャツに黒味を与える。このまま闇と同化してしまうのではなかろうか。だがそれもいい。いっそのこと闇と一緒になれたなら……どんなにか楽だったろうか。

 空は、泣いていたのだろうか。
 ふっと空を見上げた。昏い昏い、狼の瞳のような色をした暗闇だった。気を抜いているとそのまま大口開けて獲物を喰ってしまいそうな獰猛な空が、なぜ泣いているのだろうか?
 ハルヒサは歩き出した。それは、細長い体に似つかわない弱々しい足取りであった。コンクリートで舗装された道は、点々と存在する街頭でほんの少しだけ明るかったが、彼はその街灯の明るさを避けて歩き続けた。
 雨が心身を痛めつける。痛くて痛くてたまらないのに、なぜだろうか、助けてとは叫べなかった。助けを求める代わりに、彼はつぶやく。


「嘘つき」


 はなれないで。
 だれも、みすてないで。
 もう、ひとりにしないで。


彼の足取りは、誰も知らないあの秘密基地へと向かっていった。








 『俺はてめえの事だけ信じてたのに! てめえは俺の事裏切りやがったんだ!!』
 悲痛のあまり歪んでいた悠久の顔が忘れられなかった。あまりの剣幕に恐怖を覚えたミョーコは、結局翌日になっても眠りに就くことはできず、ベッドの中で自責の言葉を唱え続ける一晩を過ごした。
 ――あの時、どうしてあたしはあんなことをしたのだろうか。
 責め立てられるだけの動機はあった。人の死を抱えてすぐに笑うことができる自分もどうかしているのだと思った。そう、それは確かに。ましてや死んだのは誰でもない、かけがえのない親友なのだ。それなのにあたしは、どうして。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
 ――タオルケットにくるまってつぶやき続けた。一瞬でも途切れることがあれば、その時はすぐに悠久にまた鬼のような形相で責められるのではないかと思った。
 悠久の性格は知っているつもりだった。あんな大きなナリをしているが、心は誰よりも未熟で繊細で、薄っぺらいガラスのようなものだった。だから彼は人から触れられることを恐れた。触れられないためには物理的な力をつけるしかなかった。弱みを見せたくなかったから、強くなるしかなかったのだ。

 ああ、今までずっときれいなトライアングルを描いていたはずなのに、モトキが死んだせいでそれはものの見事に崩れてしまった。
 ねえ元基、何で死んだの?優勝して帰ってきても気が触れてしまった小沢さんのようにはなってほしくない。だけど死んでほしくもなかった……!
 それは責任転嫁?ねえ、悪いのはすべて元基なの?
 違う、違う違う、悪いのはあたし。あたしが元基からも悠久からも目を逸らして、自分だけ助かろうとしたことが悪いの。そう、悪いのは全部あたし。責められるべき人間もあたし。本当に死ななきゃいけないのは全部あたし――
 幻想の中のハルヒサからもたらされた根拠のない強迫観念が彼女の精神を苦しめた。長い髪の毛をギュッとつかんでは何度も引きちぎり、いつの間にかベッドの中は長い髪の毛が散乱していた。つめは深爪になるまで噛みちぎられ、血走った目は大きく見開かれていた。頭の中では顔の横でガラスを割ったあのとき――ミョーコが友達と一緒に笑い合っているところを見てハルヒサが激怒したとき――の音がエンドレスリピートしている。彼の眼から視線を外すことができなかった。外したら本当に撲殺されそうだったからだ。
 初めて彼を心底恐ろしいと感じた――

「お前は俺を一人にするのか?」

 まぶたの裏に焼きつくハルヒサが訪ねてきた。15歳の彼と、小学生の頃の彼。その2人が異口同音に、一字一句違わずに同じ質問をしてきた。

「一人にしないって、約束しただろ?結局お前は俺を裏切るのか? だったら何で俺と仲良くしたんだ」

 学校の渡り廊下で窓ガラスを割った時と同じ声がする。
 やめて、そんな悲しい声で言わないで。ごめんね、ごめんね、謝るから。もうほんとに、ずっと悠久のそばにいるよ。あたしはずっと悠久の味方だよ。絶対にどこにも行かないよ。だから怒らないで、そんな顔をしないで。そんな顔であたしを責めないで!!

「裏切るなら、始めから期待させるな」

 違う、違う違う違う!裏切ったわけじゃないの。ねえ、わかって?あたしにはたくさん友達がいるけど、ねえ、悠久が一番だよ?悠久と元基があたしの中で一番だよ!
「そういうのをなんていうか知ってるか?」
 いやだ、ねえ悠久?あたしほんとに悪いと思ってるのよ?だからやめて、その先は言わないで――
 
 
「偽善って言うんだよ」




 目覚まし時計が高らかな音をたてる。
 ミョーコは時計を手に取ると焦点の合わない目で時刻を確認した。そして何を思ったのか、唐突に時計を全力で窓のほうへと投げつけた。
 当然のことながらガラスは割れ、大きな音がして破片とともに目覚まし時計が庭のほうへと落ちて行った。1階の庭ではまだ時計が鳴り続けている。非常に耳障りな音だが、今のミョーコには馬耳東風と言わんばかりに効果のないものであった。彼女の"眠り"は、目覚まし時計ごときで覚ますことはできないのだ。
 中央部分がぽっかりなくなった窓の向こうには、曇天が広がっていた。どうやら雨が降っているようで、うっすらと雨のしずくが落ちていくのが見えた。――ああ、この雨はやむことがないのだろう――

 家族が慌てた表情でミョーコの部屋へと現れる。割れた窓ガラスと"眠り"の中にいるミョーコを見て、誰もが愕然としていた。ミョーコはうっすら微笑みを浮かべ、続けてこう言った。
「ハルヒサとモトキをむかえにいかなきゃ!」
 彼女はベッドから跳ね起きると、唖然としている両親には目もくれず、制服に着替え始めた。鼻歌交じりに登校の準備をする彼女の眼には、一切の光が灯っていない。両親は、そんな彼女を見て胸を痛めた。
「きょうはあめだぁー」
 彼女は割れた窓ガラスの外を見てつぶやく。
 
 
 
 この雨は、彼女にとって何だったのだろうか。








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