06:ワレタ カガミ。





 それからの日々は、まるで鏡を割ったような日々だった。
 割れた破片には同じ景色が虚像を作り、それでいてどれが本物なのか区別もつきやしない。実像を探そうにも、怪我することを恐れて触れることも出来ない。無論黙って眺めていたとしてもその粉々に割れた欠片が元通りに戻るわけでもない。
 モトキの死によって砕かれたそれらが原因で、可視のものも幾重にもぶれて見えた。


 ミョーコはモトキのお通夜以来2日ぶりに学校に行った。今日はちゃんとハルヒサも隣にいる。頼りになる人が隣にいる……それでも拭い切れない悲壮感は確かに存在する。今にも泣き出しそうな鉛色の空は、いつだって憐れみを持った視線で地上を見つめていた。たわいない会話は幕間を保てず、浮かんでは消え、浮かんでは沈黙に潰されていった。沈黙は巨大な岩石となり、学校までの足取りをいつも以上に嫌にさせた。
 ようやく学校についたと思っても、2人にとって学校は解放された場所ではなかった。
 ミョーコはなぜかすれ違って行く人の顔がすべてのっぺらぼうに見え、背筋が凍りつくのすら感じる。今まで当たり前に日常を過ごしてきたので、こんなおぞましい生活は初めてだったので、どこか初めての感情におどおどして困っているようにも見えた。
 他方、ハルヒサは今まで以上に影で自分のことを侮蔑する声が大きくなったように思えた。今すぐにでも自分を抑えている第2ダムが決壊しそうでならない。既にひとつのダムが決壊しているのだ、2つめが決壊したらもう、土石流をせき止めるものは何もなくなってしまう。

 学校の校門のところには三又に分かれたしだれ桜の太い木が一本大きく生えている。今は腰の曲がった老人のように緑の葉を重たそうにつけて存在しているだけだったが、春には薄い桃色の花をつけて、時折風に吹かれて花びらを散らし、ひらひらと儚げに揺れていた。
 威勢がいいのは校門入ってすぐ右手側にある校庭で朝練をしているサッカー部だ。男子の大御所とも言えるサッカー部は顧問が厳しく、練習も可能な限りぎりぎりまで伸ばすのが普通だ。そうしてチャイムとほぼ同時に教室に滑り込んでくるのが常だった。
 その他、昇降口の近くでは朝練のある生徒以外の生徒がちらほらと姿を見せていた。それらを見送ったあと、ハルヒサは2組、ミョーコは5組のゲタ箱のほうへと向かう。


 教室に入ったミョーコは友達に「どうして休んだの」とのことを口々に詰問されたが、彼女は会えて何も答えなかった。なぜならそう聞いてきた人たちが皆、その理由を既に知っているような顔つきをしていたからだ。5組でもミョーコ以外にもプログラムで友達を失ったショックのあまり寝込んでしまった子が大勢いたように思える。
 だが不思議なことに――3年5組で繰り広げられたプログラムのたった1人の生き残りである優勝者の立沢カナについては、誰も何も話さなかった。はたしてこの学校に通う何人の人が“あの”事実を知っているだろうか?だがその事実を言い触らしたところで彼女と仲が良かったのはクラスの子だけではなく、広く分布しているから、それらの子を敵に回したくなかった。ただでさえプログラムの話は意図的に伏せられている。人々はむざむざその絆創膏を引っぺがして傷をえぐったりするような馬鹿でもなかった。



 授業は退屈だった。もともと中の上ほどの成績だったミョーコは今日も変わらず先生の話にそれほど真摯に耳を傾けていなかったが、教師から発せられる受験、受験という言葉だけが妙に彼女の脳裏にしがみついた。
 受験。それはミョーコたちに漏れなく襲い掛かってくる高校受験という高い壁のことだ。3年になってから毎月のように模試を受けて偏差値の数字に一喜一憂している。しかしそれももうどうでもよくなった。――モトキは、もう受験も何もないのだから――
 今までは毎月の模試ぐらいちゃんと真面目に勉強して取り組んでいたミョーコだったが、ついつい何もかもが馬鹿らしくなってきてしまった。それもこれも、プログラムでモトキが死んで以来、ミョーコはただ“モトキ”という定規ですべての物事を計測していただけからかもしれない。モトキはもう何も出来ない、だから自分もやらない――そんな投げやりに満ちたエゴイズムが生まれた。

「ミョーコ!」
 ぼんやりと物思いにふけていたミョーコを誰かが呼び、その声によって彼女は慌てて現実世界へと戻ってきた。気がついたら1時間目の社会が終わっている。配られたプリントに記入するつもりでオレンジ色のペンを握っていたらしいが、何も書かずただペン先を紙につけたままボーっとしていたので、かわいそうに、紙がオレンジ色の斑点を施されていた。
「あ、えっと、なに?」
 にっこりと笑ってみせるが頬の筋肉はまだこわばったままだった。堅苦しい、と自己嫌悪を起こすくらい筋肉は硬直していた。着替えたジャージの中で冷や汗が滴ってくるのが感じられる。何を焦ってるんだと自分に言い聞かせながら彼女は呼びかけたクラスメートのほうに立ち上がった。
「さっきからずっと呼んでるのに、返事しないんだもん。次は美術だよ? 移動しなきゃ」
 どうやらこの言葉から察するとクラスメート3人ほどがずっとミョーコのことを呼んでいたらしい。心ここにあらずの状態だった彼女がそんな声に気を取られるわけもなく、したがってミョーコは眉間にしわを寄せて腕組みする友達に向かってただひたすら「ごめん」と苦笑交じりに繰り返すだけとなった。


 世界が違うように感じられた。
 もちろんこのクラスメートの人たちにも、プログラムに選ばれた5組の中に友達がいるに決まっている。それなのにどうしてこんなにも容易く日常を取り戻せているのだろうか、疑問に思えてならなかった。心の中で“5組の友達がプログラムで死んでしまって悲しい”という感情よりも“自分たちが選ばれなくてよかった”と考えている割合のほうが多いから、こうして何もかも水に流せることが出来るのだ。5組の人たちは残念だけど……という薄皮一枚を剥がせば、いつの間にか欺瞞に満ちた欲望の核が現れるだろう。
『それなら、自分は?』
 まぶたの裏側に、白黒反転した自分の姿が写った気がした。


 本当は、どこかでほっとしているのかもしれない?


「ほれ、行くぞミョーコ!」
 ぐいと力強く腕を引っ張られてまた夢想世界から引き戻された。はっと気付いた時に彼女は既に美術に使うクロッキーノートと筆箱を腕に抱えていたのだ。そのときはまだ彼女は自分の無意識に恐れを感じていなかったが。

「どーしたどーした、元気ないよ?」
 大柄の友達がミョーコのポニーテールを軽く引っ張った。いつもこうしていじられるタイプなので、いつものように「いたーい!」と嘆いた。
「ホラ、ミョーコが元気ないとさぁーうちのクラスなんかしょげて見えるじゃない?」
 そして大柄の彼女は歯をむき出しにしてにっと笑った。それから続けてもうひとりの友達が
「そうそう! いっつもさぁー必ずバカやるのがミョーコなのに、真面目になったらミョーコじゃないって!」と続けた。美術室につながる渡り廊下に向かって3人は横になって歩き始める。
「この前覚えてる? ミョーコがあのハゲの数学の時間にいきなり立ち上がってさぁー。何かと思えば目玉焼きにはソースだ!! とか言い出すし。あれ、寝言だったんだっけ?」
「あったあった! 立ち上がって叫ぶほどのことかよ、みたいなやつでしょ?! だいたい目玉焼きには醤油って相場は決まってるんだよ」

 ――そんな風にまずは大柄の彼女ともうひとりの友達から他愛ない会話のやり取りが始まった。懐かしい、何か長い間与えてもらっていなかった液体が身体中にしみこんで、それ自体にノスタルジーを感じている自分がいた。そういえば、あたしはこんな風に生活していた。こうやって友達と一緒に楽しく話して、部活で一生懸命汗を流して……こうやって、元基がいない世界を、あたしは確かに歩んでいた。元基がいなくても、あたしはまたもとの通りに戻れるんじゃない?
 本当は心のどこかではそうなることを望んでいた。元基がいない世界でも、どうにかして生きていけるんじゃないか、と小さな希望を持っていた。あたしには友達がいる。こうして一緒に笑える友達がいる。


 ……ねえ、元基。こんなあたしを、あなたは許してくれる?


「やだなー、目玉焼きにはソースだって言ってるでしょ?! これ、あたしのモットー!ぜぇーッたい譲らないんだから!」
 ミョーコの頬の筋肉が弛緩した。ようやく、心の底からにっこりと笑うことが出来た。そういった類の開放感が彼女に安堵を与えた。その澄み切った笑顔を見てふたりの友達はほっとしたようだった。元のミョーコの笑顔に戻ったからだ。

 その後の美術の時間は、ミョーコにとって笑顔が耐えない時間だった。ちょうど風景画の授業だったのだが、傑作と自画自賛していた絵にミョーコは自分自身で絵の具の水をこぼしてしまい、周囲からこの上ない爆笑の嵐を受けた。照れ笑いしながらも内心少し残念だったが、それでも笑っていることですべてがどうでもよくなった気がしたのだ。皆が、あたしの失敗を笑ってる――それは揶揄しているうちに入るしいつものことだからミョーコが傷つくというわけではない。むしろ逆に安心した。
 ああ、戻ってきた。ねえ元基。私、笑えるよ……?


 笑いの耐えない1時間となった美術の授業ではほとんど絵の制作が進まず、おかげさまで家に持って帰って仕上げなければならないハメになってしまった5組一同。それでもほとんどの人が笑顔で美術室からでて、ミョーコもそのひとりだった。今日は部活があるから、その前に絵を取りに行けばいいよね、と友達と話しながら渡り廊下に差し掛かった。
「あー! 楽しかったー!」
 ミョーコは満足げににっこり笑った。つい1時間前に教室にいたときの顔とは人が違うほど破顔一笑した。横に並んで歩いていた友人達も頬をほころばせて同意する。

 このままずっと楽しければいいな。ずっと、ずっと……。そう考えてはいたとしても、可塑性を持つ事情は変化することを知らない。変わることを拒んでいた事情が元に戻ろうとしていたミョーコに神罰を下したのは、まさにそのときだった。


 せっかく笑顔に戻ったはずのミョーコの表情が突然曇った。それは美術室から帰るために通る渡り廊下へ入る曲がり角を曲がったときだ。その渡り廊下は学校内でも有名である。何しろ昔から不良と呼ばれる生徒がそこに溜まるので、1年生などはむやみやたらに絡まれるため絶対に通れない。ミョーコたち3年はそこの渡り廊下を陣取る不良と顔見知りなのでそこまで怯えはしないが、なかなか通らない。

 しかし――そう、そこはハルヒサの縄張りだったのだ。
 彼女の目線は固定され、明らかに恐怖がにじみ出ていた。その目線をたどった先には、当然ハルヒサが壁に背中をつけて腕を組み構えている。その形相といえば……まるで阿吽の彫刻のような顔にしか見えない。ワイシャツにズボン。普通は学校に着たらすぐにジャージに着替えるはずなのだが、ハルヒサはそれをしなかった。大衆と同化することに反発していたからだ。
 ハルヒサは、ミョーコを見てしまった。ミョーコは、それをみてしまった。


「……どういうことだよ」
 渡り廊下には、ミョーコたちと悠久しかいない。彼女達の声が途切れた状態では、ハルヒサの呟き声がやけに大きく聞こえた。彼は次第にミョーコたちとの距離を縮めていく。しかし彼にとって眼中にあるのはミョーコただひとりであって、それ以外はどうでもいいらしく、真っ直ぐ彼女のほうへと歩み寄ってきた。
「どういう事かって聞いてるんだよ!!」
 彼はミョーコのジャージの胸倉を乱暴に掴んだ。ハルヒサは元来フェミニストではなく、男であろうが女であろうが容赦なく乱暴を振るう人間だったため、今ミョーコを目の前にしても男相手の喧嘩とたいそう変わらない力を出していた。そんなバカ力で襟を締め上げられたミョーコはただ「止めてよ、何のこと?」と聞き返すだけで精一杯だった。
「とぼけんなよ」
 にらみを利かしてハルヒサはただ一点、ミョーコの瞳の奥の奥を見つめた。ただ、苛立ちと怒りの感情を込めて。

「お前、言ったよな。笑えないって。元基がいない世界じゃ笑えないって」
 脳に高圧電流を流されたように一瞬視界が真っ白になり、感情が麻痺した。え、なに、なんのことなの?――彼女は前日に、彼女自身がハルヒサに言った言葉を忘れていた。
 『あたし、このままずっと笑えないかもしれない』

 当然条件反射として唐突に暴力を振るってきたハルヒサを止めようと周りの女子は彼の手をつかんだ、が、あえなくして全力で振り払われた。そのうちにひとりが「先生呼んでくる!」と急いで校舎に戻り、残りの彼女達もその後ろを逃げ去るように追いかけていった。
 たったふたりきり、渡り廊下に残された。ハルヒサは締め上げた襟首をつかんだままミョーコを力の限り壁に打ち付けた。
 どっ……と鈍い音がしてミョーコの身体は壁にぶつかった。かはっ、と息を漏らし、痛みを受ける。掴まれた首の下のほうでは大動脈が大きく峰打っていることが感じられた。どくん、どくん、と鼓動がゆっくりと大きく刻まれるたびに、息苦しさを感じた。


「イイよなぁ、そうやって“トモダチ”がいるてめぇはよぉ……。いつもどおりにしてりゃ元基のことなんてすぐに忘れられるもんなァ? そうやって笑ってるんだな? お前もあいつらと同じだ。友達死んだのに、結局今日もへらへら笑いやがってよ……! 所詮そこまでのトモダチだったってことだろ? お前にとっての元基もそういう存在だったのかよ!!」
 鎖骨のあたりにハルヒサの硬いこぶしが食い込んできて、息苦しさは一層増した。違う、そうじゃない。そう言いたかったが叶わなかった。
「そうだよな、所詮お前と俺は違うんだよ……ホントは、いつも思ってたけどな。お前には友達がいる。俺にはいない。お前には元基以外の友達がいる。俺にはいない。……なあ、お前、確か言ってたよな? 『元基がいない世界じゃ、心から笑える気がしない』って」
 頭の中で先日の記憶が蘇ってくる。嗚呼、あの思い出の裏山。思い出の、場所たちよ。
 彼女はがくがくと震えていた。寒くはない。むしろ時期的には蒸し暑いほうだ。それなのに――


「それがなんだよ、お前、笑ってるじゃねえか。クラスメートとふざけあって笑ってたじゃねえか!! ハハ、結局また俺はひとりか。お前だけどっかに他人と一緒に走っていきやがって、俺は、そうか俺はひとりか!!」
 ミョーコは自分の言ったことをうすぼんやりとだが思い出した。
 『大丈夫、置いてったり……しない、から。一緒だよ』
 独りとり残される孤独を熟知していて、だけど寂しいから友達を作るという器用なマネは出来ない彼。実の母親にも見限られ、彼女や元基がいなければ本当に独りになってしまう彼を、どうして独りに出来ようか、いや出来ない。だけども彼女はハルヒサを独りにさせてしまったのだ。
――あたしが……元基を忘れて元通りの生活に戻ろうとしたからだ……!!
モトキが許してくれたとしても、ハルヒサがそれを許すはずがない。

「お前、俺に嘘ついたんだな? 俺は、ひとりでその嘘に踊らされてたってワケだな?」
 言葉を言い終わるのが早いか彼が腕を振り上げるのが早いか――ミョーコはとっさに頭を防御した。
「俺はてめえの事だけ信じてたのに! てめえは俺の事裏切りやがったんだ!!」
 バリィンッ!!と彼女の頭上にあったガラスが割れる音がして、そのすぐ後にガシャンッ!!とガラスの破片が地面に落ちる音がしたガラスの破片はすべて外側に散らばって内側にはほとんど入ってこなかったが、ミョーコには見えない無数のガラスの破片が突き刺さった。

 何も言えなかった。
「何とか……言えよ……」
 と言われても、何も言えなかった。

 ハルヒサの白いワイシャツが瞬く間に鮮血で赤く染められた。ガラスの破片が腕までまくったワイシャツのちょうど露出していた部分に突き刺さって出血したのだ。けれども彼は歪んだ表情を保ったまま、苦言を呈しただけだ。
 ただただ、そこにあったものは恐怖。何ものにも例えようがない戦慄だった。


「何の音だ! 何やってるんだアンドウ!」
 渡り廊下の校舎側のほうに教師がたかって叫びだした。呼ばれたハルヒサは(ちなみに、ハルヒサの苗字はアンドウだ)ミョーコを振り払うように軽々と投げた後、かかとを踏み潰した上履きのまま渡り廊下を駆け抜け美術室があるような特別棟のほうへ行き、出口から校庭に出た。ちょうど、割られたガラスの破片が散らばっている外側のあたりを通り、校舎裏に入って姿を消した。

「待てアンドウ!!」
 ハルヒサのクラスの担任が彼の後を追うが、脱兎のごとく消えたハルヒサを捕まえられるかどうかは一目瞭然だった。何も部活には所属していないが、生まれつき彼の足は速い。ミョーコやモトキがいつも陸上部に入ればよかったのにね、とぼやくほどだ。まあ折り合いの悪い彼のことだから、入って早々退部という結末は目に見えているが。
「大丈夫?!」
 ミョーコの担任である女教師が近づいてきて、その眼鏡の奥の瞳をめいいっぱい潤ませながら顔を覗き込んできた。しかし透明の破片に身体中を突き刺されたミョーコがまともな返答を出来るはずがなく、ただうつろな目のまま「ハイ」と答えるしか出来なかった。


 悠久が、キレた。
 ミョーコが呆然としている一番の理由はそこにあった。
 おれは、いらないこなんだ、と呟いた幼い頃の彼の姿が目に浮かぶ。このままではいけない、と警鐘が鳴った。完全に、3人の絆に亀裂が入ってしまったのだ。ハルヒサはミョーコだけが幸せになることを望んでいなかった。ふたりで一緒に悲しんで、一緒に元気になっていくことを望んでいた――いや、独りだけ悲しみに取り残されることを拒んでいた。
 ミョーコは酷く後悔と自責の念に駆られた。自分だけが日常に戻ろうとしたことを……。

 ハルヒサが今、何を考え、どこを走っているのかはミョーコには分からない。
 だが、2人の間に深い深い溝が出来てしまったことだけは、明らかに察することが出来た。





 ハルヒサに「てめえ」と呼ばれたのは、それが最初で最後だった。








 あなたは今、幸せですか?







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