05:斜陽へのビロード





 夢を――夢を見ていたのかもしれない。

 ミョーコは携帯電話から流れるアラームの音を馬耳東風のごとく聞き流した後、ややあってからむっくりとタオルケットを蹴飛ばして起き上がった。アラーム音が一旦途切れる。しかしミョーコの頭はまだ覚醒しきっていなかった。
 夢を見た。モトキがあの悪名高いプログラムに選ばれて、死んでしまう夢を。
 ――なんだろうこの不謹慎さ。葬式にまで行っちゃったよあたしと悠久。
 ぼんやりとそんなことを考えながらベッドから起き上がる。スヌーズにしておいた目覚ましがもう一度元気よく声を上げた。

 朝ごはんをぼんやりと食べ、ぼんやりと家を出た。いつもどおり、モトキの家に寄る。すると玄関には忌中の文字が書かれた紙が張ってあった。いつもは玄関の前でかばんを斜めがけにして立っているはずの彼が居ない。おはよう、澪子。そんな声も、もうどこからも聞こえない。ああ、あれは夢ではなかったのだ。そう考えると急に嗚咽が込み上げてきた。
 泣いてはいけない。そう思ったミョーコはすぐさま身を反転させてハルヒサの家へと向かった。ハルヒサの家は1階建てで茶色いトタン板で壁を縁取られている古そうな(いや、実際古いのだろう)家だ。そこにはハルヒサと彼の父親が住んでいる。けれどもハルヒサの父親は滅多にこの家に帰ってこない。彼の家はいわゆる父子家庭で、かつ父親は愛人の家に意地になったように入り浸っていた。


「悠久ー?」
 ハルヒサの家にはインターフォンというものがない。だから扉を開けて呼びかけなければならない。1階建てだから声が聞こえない、という事は絶対にないのでそこら辺は安心できる。しかし今日は何の返事もなかった。明かりもついていなければ毎朝必ずするマーマレードジャムの匂いすらしない。どうしたものか、ハルヒサの家は物抜けの空だった。

 ミョーコは急に幼い頃の嫌な記憶に襲われた。
 それはまだ、きっと小学校にも入っていない頃だろうと思う。連れ子を持った者同士の結婚だったハルヒサの両親なのだが、その母親が、父親の連れ子であるハルヒサの戸籍上の弟を連れてこの家を出て行ってしまったのだ。つまり、ハルヒサは実の母親に捨てられたのだ。血のつながった母親は、実の息子よりも血のつながっていない弟を選んで、この家から消えうせた。
 幼いハルヒサにとっても、それが“捨てられた”だったという事はもちろん気付いていただろう。実の息子よりも他人の息子を選んだ母親を憎み、血のつながっていない残された子供を可愛がろうとしない父親を憎み、そうしてまで残された自分の孤独を憎んだ。

家が近所だからと時々遊んでいたミョーコとモトキだったが、当時からハルヒサの印象は鬼のごとく怖かった。このことが原因で、2・3日家から消えてしまったこともある。ミョーコとモトキは一緒に遊んだ裏山のほうへと捜しに行ったこともある。朝から夕方までずっと大声を張り上げて探し回った。夜になったので捜索を打ち切ろうとする大人をよそに、当時の2人は野山を駆けずり回った。引っ越してきたてのハルヒサにはこの山の夜の怖さを熟知していない。それを誰よりも知っている2人は、一生懸命になって探し回った。
 裏山の中腹、木々がより一層茂っている中で、ハルヒサは発見された。
 ハルヒサは、裏切りを知っている。孤独を知っている。その小さな身体の中に、負のエネルギーが常に満タンとなっている。
 ついに、裏山の中腹辺りにある大きな石のところで彼は2人に見つけられた。ハルヒサは、がくがくと震えていた。
 そして彼は探し出してくれたミョーコとモトキを見て、涙を流しながら呟いたのだ。
 「おれは、いらないこなんだよ」――と。


 足は自然と裏山のほうへと向かっていた。そこは小学校のころ、モトキとハルヒサとミョーコが秘密基地を作った特別な場所でもある。中学校に入ってからからはミョーコがソフトテニス部に入ったため忙しくなり、3人揃ってはほとんど足を運ばなくなったが、相変わらず鬱蒼としていて不気味だ。しかしそれがきっと、子供特有の好奇心をくすぐったのだろう。だけどどうしてだろうか、いつの間にかその好奇心は薄れ、今ではどうしようもない不安しか出てこない。意味もなく心臓が高鳴った。
「あ……」
 彼女は口をあけた。もちろん何か叫びたかったのだが、なかなかのどがそうしない。仕方がないからミョーコは早足で山の中へと入っていく。指定の白いスニーカーが土を踏んで汚れた。

 ミョーコはまず例の秘密基地の場所へと向かった。今では風や雨によって跡形もなく秘密基地は壊れてしまったが、代わりに今もそこに土管がひとつ残っている。コンクリートで作られた、普通の土管。直径1メートルほど、長さが2メートル歩かないかの者が横たわっていて、表面に白いチョークか何かで落書きがしてある奴だ。裏山で遊んでいて急に雨が降ってきたりすると、3人でその土管の中に雨が止むまでずっと肩を寄せ合ってじっとしていたものだ。
 雑草と何かの花らしきものが混合して派生している。

 どうしても見つからなかったので、彼女は探す場所を変えた。残る場所は後一つしかない。小さなハルヒサが一人で孤独と裏切りの精神的苦痛に耐えていた、あの、大きな石のある場所。
 その場所は秘密基地からそう遠くは離れていないが、入り組んだ場所にあるのでなかなか目のつくところではない。木々を掻き分けてミョーコは歩いた。

「悠久、みーっけ」
 やはり、彼はそこにいた。
 昨日、モトキのお通夜会場で棺桶をかかと落としした上に、優勝者の立沢カナの狂乱した姿を見たとなれば、当然ハルヒサの機嫌が悪いことぐらい手に取るように分かる。機嫌が悪いときのハルヒサは、いくら親友のモトキやミョーコでもかつて一度たりともなだめられたことがなかった。だから出来るだけ明るく振舞おうとしたのだ。
 誰も君のことを怒ってないよ
 僕らが、君のそばにいるよ
 ……と。


「……澪子か」
 膝を抱えてうずくまったまま座っていたが、ミョーコの声を聞いてハルヒサはむくりと顔を上げた。泣いていたのだろうか、目のふちが赤い。昨日から着たままらしいワイシャツがぐしゃぐしゃになって少し汚れていた。
「ここに居るって思ってたよ。悠久、嫌なことがあるとここに来るよね」
 木々が自然に作ったバリケードは、昔からハルヒサの特等席だった。そう、実の母親に捨てられたときにもここに居た。誰にも見つけることが出来ない、森の、奥深くの、サンクチュアリ。彼にとって孤独と不安の塊でしかない現実から逃げ出すには、この聖域の存在がめっぽう強かったらしい。
 ミョーコの問いかけに対して沈黙したまま目を伏せた。
「泣いてたの?」
「うるせえな……。澪子、学校は?」
「悠久が家に居ないから、ビックリして探しに来たの。いつから居たの?」
 昨日の夜中。寄り添うようにしてハルヒサのとなりにしゃがみこんだミョーコの耳元で、限界までトーンをさげた声でそう呟く。長身で、その上目つきが悪く常に誰かとの距離を大きく開けている悠久だったが、それが彼の弱さからきていることはミョーコも、もちろん死んだモトキも知っていた。時々こうしてさらけ出す弱さこそが、その証明になっている。彼は隣に座ったミョーコに寄りかかって続けた。

「……夢、見たんだ」
「夢?」
 夢見がちな思春期真っ盛りのミョーコはよく学校に行くときモトキとハルヒサにその日見た夢の内容を話したことがあったが、ハルヒサが夢の話をすることなど滅多になかった。彼は夢を見ることが何か少女的な風潮があると勘違いしているらしく、少しためらいながらも口を開いた。
「……居なくなる、夢」
「居なくなる? 誰が?」
「元基と、澪子が。それで俺が独りになる……」
 センチメンタルだな、とは思わない。ただ、ミョーコにはハルヒサが相当ショックを受けているに違いないという事を考えさせた。
 不意にミョーコは3人で遊んだ秘密基地のことを思い出した。もう揃うことのない幼馴染。1人欠けた絆。
 さぁ、おじょうさん、ここでもんだいだ。“何が”たりない?


 うっ……とうめいた後、自分が泣いていることに気付いた。目頭が熱くなっていく。目じりのほうに生ぬるい液体がたまって、静かに、ゆっくりと、しかし確実に流れていく。足りないものに気付いてしまったのだ。それがもう二度と戻らないことにも、気付いてしまったのだ。


 元基、元基、元基!!何で死んだの?どうしてプログラムなんかに?あたし、元基がいないと寂しくて仕方ないよバカ!悠久がこんなのになったのも、全部元基の所為なんだから!!責任取るために、生きて帰って来てよ。ねえ、もう1回、笑って?


「……泣いてんのか?」
 今度は逆にハルヒサに問いかけられた。だけどミョーコはハルヒサのように反抗しない。素直に何回も何回も頷いた。
「元基が……元基が何したって言うのよ!!」
 急に声を張り上げて叫びだした。彼女の突然の変容に驚いて、ハルヒサは寄せていた肩を離す。近くにいたのであろう鳥がバサバサッと羽音を立てて飛んでいくのが分かった。全世界の人間に驚かれようとも、きっと彼女はこのまま叫び続けるだろう。なおも大声のまま続けた。
「だって元基に死ぬ理由なんてひとっつもないじゃん! こんなのおかしいよ! プログラム自体が間違ってる! こんなの……こんなの……」
 理不尽、非合理的、不道徳、邪道、言語道断、プログラムを形容する言葉をあげれば限りなかったが、混乱したミョーコの頭にこれらの言葉は浮かんでこなかった。なんでもいいから罵倒したかった。そうし続けることによって惨めな自分を正当化しようとしていたのかもしれないし、モトキが死んだ理由が分からないという理不尽さにケリをつけようとしていたのかもしれない。ただ、ひたすら。

 嗚咽交じりに泣き続けるミョーコの頭をハルヒサはそっと撫でた。幼少の頃ミョーコが泣き出すと、必ず慰め役に回ったのはモトキであって、そういう事にやたらと不器用なハルヒサは、ただそこに存在している事しかできなかった。今だって彼は、自分の拙劣さを憎みつつもやはり幼い頃と同じように、そこに存在している事しかできなかった。
 そこで彼はようやく、悲しんでいるのは自分だけではないと知った。


「俺たちは……元基がいない世界で生きていかなきゃならないんだよな……これから……」
本当は、そんなこと嫌だけれども。言葉にしなかったが2人の思いは同じだった。
「……うん」
「なぁ、澪子」
「何……?」
「俺を……置いてくなよ?」
 ハルヒサはミョーコのワイシャツの腕の部分をぎゅっと握った。
「大丈夫、置いてったり……しない、から。一緒だよ」
 しゃくりあげながら言葉をつづるミョーコの顔は、泣き顔を無理矢理笑顔にしようと試みて逆に不細工になっていた。そんな顔に笑うことも出来ず、ハルヒサは前を向きなおす。
「あたし、このままずっと笑えないかもしれない」
 これから、2人だけが残された世界を生きなければならない。
「元基がずっと笑ってくれたから。なんか、心から笑えない気がしてきた」
 不器用でも――
「あたし……今までどおりの生活していける自信ないから!」
 拒絶は出来ない。


「……俺は、このまま行こうと思う」
 ハルヒサは暗い調子のままつぶやいた。いや、ぼやいた、と表したほうがどちらかというと正確かもしれない。彼は座布団代わりになっている石から立ち上がって、今では低い天井となった木の枝を一本、折る。
「別に元に戻ろうとも思わない。俺は、元基が死んだ、このままで生きる。だってこの後また元通りの生活してたら、俺らにとっての元基はなんだったんだ? って話になるから。澪子はどうするんだ?」
「あたしは……」
 ミョーコは言葉に詰まった。ただがむしゃらにないて悔しがっているだけのハルヒサかと勝手に思い信じ込んでいたのだ。だから、こうして明日からの自分像をちゃんと作っている彼に少なからずとも驚いている。
「やっぱり元基が居ないと、戻れないよなぁ……あたしたち、3人揃って普通の生活してたしね……ひとり欠けたら……他の友達とも、気まずくて話せない……かも。そのまま慣れるまで……そうやって生きていくしかないんだろうなぁ」
 いつも元気で、クラスでも主流派のミョーコ。クラスの友達も大事だったが、何より失いたくなかったのは幼馴染の絆だった。疎いと思ったこともない。ないがしろにしようとしたこともない。どんなに仲の良い友達がいても、やはり原点はこの3人の絆だった。


「悠久と、同じ目線かもね、なんか。……一緒に行こうよ、色々とさ」
 ミョーコは決して意味深な言葉のつもりで言ったわけではないが、ハルヒサにはどうやらすごく深い言葉に聞こえたらしく、ゆっくりと頷いた。
 それからは会話の幕が下り、沈黙が始まる。何も話さず、ただそこの木の隙間から見える山のふもとばかりを見下ろして、今日は薄暗い曇りの日だ、とぼんやり考える事しかできなかった。
 その日の学校は当然無断欠席。気付けばミョーコの両親が夕方になって血相変えて探し回っていた。暗くなったので重い腰を上げ帰って行った2人はちょうど両親に鉢合わせになり、2人ともども無断欠席などを怒られた。だけれども、どこか無気力で生気のない2人を前にしてさえ、何故だかよかった、よかった、と両親はいつも以上に大げさに喜んでいた。ハルヒサの家では、誰も心配もせず、誰も喜びもしなかったが。何せ家にはまた、誰も居なかったからだ。


「じゃあ、また明日。ちゃんと家に居てね」
 ミョーコとハルヒサがそれぞれの帰路に分かれるとき、彼女はそう言った。
「ああ」


 そのとき、彼らは知らなかった。また、知る由もなかった。
 “明日”、帰路どころか生き方までが、2人別々のほうへと向かっていってしまう事を。










あなたは今、幸せですか?











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