04:残忍な結果





 逃げるようにしてお通夜の会場から出てきたハルヒサとミョーコは、電車に飛び乗って地元まで帰り、そして自転車に乗って家の方向に向かった。蒸し暑く、かえるの声が田んぼから聞こえてくる。水田にはまだ緑色の苗が植えてあって、ちょうどこの時期に水を引くところだ。これから夏にかけてアメリカザリガニが繁殖し、何も知らない彼らは用水路から飛び出して車につぶされてしまう時期もこのあたりである。そういうところから夏が近づいている様子がありありと感じられた。

 夜空は暗い。冬のように空気が澄み切ってないから星さえも見えない。それでも車の来ない田舎道を自転車でこいでいると、大きく広い夜空を見上げている余裕が生まれてくる。ミョーコは首を動かしてその暗い空を見上げた。夜分まで電灯をつける都会のような雰囲気はここにはないから、幾分か漆黒に磨きがかかっている。電信柱や電線で切り取られることのない360度パノラマの下のほうに映る家屋は、日が暮れるとともにやかましさを抑え、今では淡い色だけ残してほとんど喋らない。家屋に紛れて浮かぶ背の高い木々たちも、誰もが話すことを拒んだ。何故だろうか、その暗さと沈黙にに吸い込まれそうな気がした。しかしいっそ吸い込まれてしまえとさえ思った。夜空というステージで踊る星たちは垂涎の思いで求める。月というスポットライトを。どうか、明るいステージを僕達に――と。しかし今日は新月だった。


 それからミョーコは上を見上げるのを止め、隣で黙って自転車をこいでいるハルヒサを見た。ハンドル部分を曲げて「カマキリ」、通称カマチャリと呼ばれる加工をこなしている。持ちやすいのだろうがどうしてもバイクのハンドルを想像してしまうそれは、今ではだらしなく片方しか握られていない。2人の間に会話はほとんどなく、ただ沈黙だけが流れたが、そこはカエルの鳴き声がやかましいほどにカバーしてくれた。沈黙も沈黙と見なされなくなっていたのだ。
 情景は彼らの悲しみをも看過する。暗闇は彼らの嘆きさえ包み込み消失させる。気がつけばもうそこは自分たちの通う中学校の近くで、家々から漏れる明かりも少しばかり強くなっていた。


「なあ、澪子」
 今までだんまりを決め込んでいたハルヒサが急に話し始めるものだから、ミョーコは驚いて「なっ、何?」と覚束ない返事を返してしまった。しかしそんな覚束なさもまったく気にならないように、ハルヒサは続きの言葉をつなげていく。
「誰が……優勝したんだろうな」
 彼らの通う中学校はどのクラスも33人の6クラス編成となっている。もちろんその33人のうちたった1人だけ座ることのできる王者の椅子に、本当はモトキに座って欲しかった。だけれども違う誰かがその椅子モトキから奪ってしまった……一種の泥棒に対する軽蔑のような感情が先刻の言葉に秘められていた。
「わかんない」
 ミョーコにはそれしか言えなかった。不思議なことに彼女の頭にぱっと浮かんだものはつい先ほどいたはずの葬式会場だった。棺の中のモトキは、真っ白な菊の花に敷き詰められ、まるで眠っているかのように白く美しい顔だった。歌舞伎の女方のようその死に化粧は、死後の衰弱により輝きを失っているように見えたけれども。

 学校の校庭側の角を曲がり、しばらく自転車をこぐと家はもうすぐだった。セオリーどおりに自転車のハンドルを右に切り、照明の落ちた野球グラウンドを右手に見ながら彼ら2人は自転車をこぎ続けた。そんな野球グラウンドを横目にして思い出すことがある――プログラムの犠牲となった5組の生徒の中には、野球部の部長がいた。頭は無論丸刈りで、キャッチャーらしいずんぐりとした体格だ。見方によれば高校生に見えなくもない。「しまってこー!」とチェンジごとに叫ぶ声は離れた場所にあるテニスコートにも響いてきたのをミョーコは覚えている。同じクラスになったことはないが、いつも学年中の人気者だった。
 しかし、彼はもういない。あの声も、聞く事はない――死んでしまった。
 田んぼの中にぽつんとある中学校。3年生の一クラス分だけ、神隠しにあったような幻覚を覚えた。


 ふと、ミョーコは左側に引越しセンターのトラックがエンジンをかけたまま停まっているのを見た。今は夜だ。当然夜に引越しをするなんて常識はずれもいいところに決まっている。一体誰が?何故今頃?
「ねえ悠久、ちょっと待って……」
 ブレーキをかけてゆっくり自転車を止めた。
「なんだよ、どうした?」
「……あそこ、立沢さんちじゃない?」
「は? 誰、タチザワさんって」
「うーんっと、ほら、陸上部の短距離の……ってわかんないか」
「わかんねえ」
「あのね、元基と同じクラスだったの……」
 元基と同じクラスだった。そんな言葉に過敏反応を示したハルヒサは急に目つきを変えた。この目だ。お通夜会場で元基の棺にかかと落としを食らわせたときの目。凶暴でかつ野性的な何かを感じるその目は、いまや生気を糧にしてそれ自体が青い炎であるかのように静かに揺らめいていた。
「行ってみる?」
「ああ」
 2人ともすぐに自転車のハンドルを切り、ヘッドライトが光っている引越し屋のトラックのほうへと急いだ。


 やはりそこは立沢カナの家だった。ミョーコたちとは小学校は違っていたが、家から学校までが近いことや友達の友達つながりでなんとなくミョーコが知っていたのだ。中学生の交流なんて狭いもので、学年の全員の名前は3年間のうちでだいたい覚えてしまう。
 立沢家はどうやら引越しの真っ最中のようだった。娘がプログラムに巻き込まれたすぐあとに引越し?しかもこんな夜に引越しだなんて、まるで夜逃げもいいところじゃない――ミョーコとハルヒサは自転車にまたがったまま家の前で運ばれていく荷物を待つトラックを見つめた。
 特に見ていること自体にはこれといった意味はなかった。立沢家の父親と母親らしき人らがせわしく頻繁にトラックと家の間を往復している。その間に紛れてタンスなど大きいものを緑色の作業服に身を包んだ引越し屋が運んでいく。どこからどう見ても普通の引越しだった。引越しの時間を除けばすべて。


「いやああああ!!! 離して、離して!! 嫌だ、やめてよ!!!」
 静寂の中を張り裂けんばかりの雷鳴が鳴り響いたのかと思った。それほどその声は唐突で、かつ甲高い声をしていたから夜闇に無駄に響いたのだ。こればかりはカエルの鳴き声ではフォローできない。
「来る……くるよぉ!! なっちゃんがあたしを殺しに来る! いやああ!! 皆があたしを殺そうとしてる! ホラ、そこにいるもん! もういや、あたしこっから出たくない!! 離して!」
 この蒸し暑いというのに白い布団を頭からかぶっている女の子が、3人がかりで押されて玄関から出てきた。
「立沢……さん?」
 その姿を呆然として見つめていた。立沢カナと言えば良くも悪くもなく、至って普通の子だ。友達の交流も広く浅いし、勉強もそれなりにできる。そんな彼女が、まるで物の怪に取り付かれたかのように髪を振り乱して家から出てきた(正確には押し出された)ではないか。

 家の外には電灯があり、ちょうどスポットライト風に一部分だけ明るくなっていた。毛布で包まった立沢カナがそこに近づいていき、ついにその明るいステージの中央に位置した。しかし華々しいものはそこには皆無で、皮肉にもその明るい光が立沢カナの醜く引きつった顔を顕著に照らしていた。目はうつろと剥き出し、気違いのようにぽっかり開かれた口からはよだれが垂れ流されている。頬はこけ、不健康そうに肩を落とし、おぼつかない足取りで車に乗せられるところをハルヒサとミョーコは見てしまった。

 バタンッ、と車のドアが閉まる音がする。どうやら荷物も積み終わり、後は出発するだけだったようだ。まずはじめに引越し屋の車が出発し、その後を追いかけるように立沢カナの乗った車がエンジンをかける。排気ガスを振り乱して2台の車は彼らの隣を通る。絶叫がこだまする車中の様子が、ガラス一枚隔てた外側にも深々と伝わってきた。骨の髄まで凍らせるような寒気が背筋を走る。またがっていた自転車のハンドルをぎゅっと握った。……怖かったのだ。何かにしがみついていないと。


「……帰ろう、悠久」
 車とすれ違ったとき、確かに感じたその悪寒の名残をまだ背筋に感じたまま、直立不動でミョーコは端的に趣旨だけを述べる。ともするとすぐに脳裏の浮かび上がりそうなほど勢いを持つあの立沢カナの顔が見え隠れしていった。思い出さないように、思い出さないように――だらしなく歪んだあの顔、まるで精神薄弱を起こした患者のような――いけない、忘れよう、忘れよう。
「……ああ」
 思っていることは、どうやら2人同じことだったらしい。立沢カナに負けずと劣らず顔面蒼白になった2人は、顔を見合わせてしばらく黙ったまま立ちすくんでいた。プログラムで優勝することは、人間をああも変えてしまうものなのか?という疑問がハルヒサとミョーコの共通の気持ちだったようだ。とてもとても、つい先日まで普通の生活を送っていた人間とは思えない。元基があんなふうになっていたら?……想像を絶する世界が広がっていくに違いなかった。


 気持ちに矛盾が生じた。生きて帰ってきてほしかったけれど、立沢カナのように狂ってほしくない。やはり、人の死を前にして、そしてその後も平凡な生活を送ろうと思うことが神への――いや、人間としての倫理に対する冒涜だったのだろうか。
 ハルヒサとミョーコはハンドルを切り、またもとの道へと帰っていく。ここから家は近い。しかし、爾来2人の間から一切会話が生まれなかったのは、言わずともなかれだろう。










あなたは今、幸せですか?











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