03:突きつけられた現実





 それはひきこもりが暗い部屋の片隅で何かを呟いているかのように、無機質で、あまりにも意味のない言葉の羅列――魂が抜けたようにお通夜に参列したハルヒサとミョーコにとって、読経とはそんなものだった。聞いてはいるのだがもちろんのこと言っている意味など理解できず、頭の中を右から左へと駆け抜けていった。お坊さんが木魚を叩きながら読経をしていた時間は、いたずらに長い。興味がなかったはずなのに、そのお経は時々思い出したように2人の脳内に居座ってはモトキが死んだことを示唆して帰っていった。

 モトキが、死んだ。
 モトキが、プログラムで、殺された。

 集会で元基が所属する3年5組がプログラムに選ばれたことを聞いたとき、元基の葬式は絶対に無いと思っていた。きっとまたあの細い目を一層細くして帰ってくるものだと信じていた。しかしその信頼もことごとく深い傷を残して返却される。現実だけが、非情だった。

 6月――蒸し暑さだけが残る時期だが、ここのお通夜の会場はひやりとするほどに冷房が聞いている。あまり奇麗な場所ではないのだが、ここしか取れなかった。なんたって“あの”プログラムに選ばれそして亡くなった一クラス分の生徒のお通夜が、ほとんど同じ時刻に行われるのだから。会場を取るのにも苦労したはずだ。こんな田舎町となればなおさらである。

 ハルヒサはワイシャツのすそをぎゅっとつかんだまま下を向いていた。彼は修学旅行の班行動で、同じ班員と馴染めず数メートル後ろを歩いていたのをちょうど行き先が同じだったモトキに見られ、咎められたのを思い出している。モトキは愛嬌があって天然なので誰からも愛された。ハルヒサとは違う。ハルヒサは刺々しかった。ちょうどその時は京都の暑さに苛立っていたこともあってか、適当に流しておいた。モトキもそれが普通なので、深入りはしなかった。それが、最後のモトキの記憶。夕飯は部屋ごとですき焼きだったし、朝食もまた部屋ごとだったのでそれ以降モトキに会っていない。
 彼はこぶしに力を入れた。あまりにも実感がなく、そんな自分に苛立っていたからだ。お焼香のにおい、人々のすすり泣く声、すべてがすべて泡沫のようで。

 一方のミョーコは嗚咽によって肩を上下に揺らしながらにじむ視界で焼香の列に並ぶ人々を見ていた。それは学校の友達であったり、塾の先生だったり、親の知り合いだったり。あまり多くの列ができてないのは、やはりこの街が小さいからだろうか。彼女もまた制服である灰色のジャンパースカートに長袖のワイシャツを肘までめくった格好でそこに座っていた。隣の席でハルヒサがモトキの最後を回想している間にも、彼女はこのすべてを否定し続けていた。もしかしたら夢を見ているのかもしれない。モトキが死んだなんて、夢。それとももしかして、本当に夢見ていたのは今日このときまで?

 信じられない局面を迎えてしまった。プログラムとは全国何万とあるクラスの中からたった50クラスが選ばれる。平均一都道府県に1つか2つのクラスだ。県単位で見たとしても何百と学校があり、クラスだって平均を取ればその5倍の数はあるだろう。そんな中からひとつ、モトキのクラスは選ばれたのだ。未来を搾取するその血塗られた手で。


 気がつけば読経は終わり、お通夜会場は閑散としていた。昔からの幼馴染という事で2人はモトキの棺のところに行かせてもらった。身長160センチ行くか行かないか。その小さな身体にはまだいくばくの可能性が秘められていたのだろうか、一概には計り知れない。
 棺に納められた彼の周りには、白い菊が敷き詰められていた。元来の細い目はもう二度と開くことがない。漆黒の髪の毛が白菊と絶妙なコントラストを表しているではないか。櫃のふたが2人の前で閉められようとしている。明日は葬式だが平日のため2人は来ることができない。

 もっと一緒にいたかった。
 もっと一緒にいてもいいよね?

 惜しむように棺の中を最後まで凝視し続けていた。
 棺が一旦閉められ、釘が打たれた。痛いにはそれ程目立った外傷はない。しかしそれは白菊で隠されていたのだ。腹部を刺され失血したモトキの傷は、しかし今は丁寧に縫われている。
「嘘……なんで? なんで元基が死ななきゃならないの?!」
 ヒノキのふたでモトキの姿が見えなくなったあと、急にミョーコが声を荒げて
「ねえ、やだよ、元基。あたし、こんなのやだよ……」
とわめきだした。とめどない現実への拒絶は久遠に続く。
「澪子……。元基……」
 ハルヒサとて、こんなに涙をぼろぼろ流すミョーコは一度も見た事がなかった。ソフトテニス部の副部長を任せられるほど信頼が厚く、またくじけぬ人間性を持っていた。でもハルヒサはまた別のほうから彼女を見た。
 ――俺たち3人がちゃんと揃ってたから、澪子は強かった?
 彼は棺に向かって大粒の涙を流すミョーコの背中を見つめていた。

 鼻に詰められたティッシュ。
 物言わぬ白菊。
 逆仕様の白い内掛け。
 それらが棺の中にすっぽりと埋まったとき、ふと突然ハルヒサにやるせない感情が生まれた。何も言えないのだ。この不安定な気持ちを表現するためのぴったりの言葉が見当たらない。元々口下手だったが、このやるせない気持ちのやり場は言葉に表せないだけではなく、発散する場所すら搾取されていた。
 やがて大人たちが棺の周りから散らばったあと、彼はだらしなくポケットに手を突っ込んだまま右足を高く振り上げた。その後ろにいたミョーコが止める暇もなく、彼の足は真っ直ぐ棺の上に振り下ろされる――

 ガッ……

 釘が打たれた棺の木に亀裂が入るほどの渾身の一撃。その瞬間、人々の視線が音のほうへと向かった。


「ちょっ……何やってるんだハルヒサ君!」
「やめてハルヒサ君!!」
 その場にいた親戚の人々、モトキの家族が一斉にハルヒサに掴みかかり、もう一度棺を蹴ろうとするハルヒサを押えた。しかしそこいらの大人と同じかそれ以上の力を持ち、加えて静かなる怒りを蓄えた彼は誰にも止めることが出来なかった。
「はる……ひさ?」
 その後ろで腰が抜けて力なく座り込んだミョーコが蚊の羽音のような小さな声を出した。
「うぜえな離せよ!! 離せって言ってんだろ!!」
 それまで凛として、ただひたすらこぶしを強く握っていただけのハルヒサが、ここに来て急にいつもの凶暴的な性格に戻った。腕を抑える大人たちを振り切っては棺を蹴り上げる。ようやく大人5人がかりでハルヒサの暴動は落ち着いてきた。それでも獲物を狙う百獣の王のような瞳は相も変わらず棺を睨みつけている。
「止めてよ悠久!!」
 ようやく声が出るようになったミョーコが大声を出すと、ぴたりとハルヒサの動きが止まる。そして彼は首を後ろの回してミョーコのほうを向いた。彼女は、泣いていた。


「俺は……認めねえぞ、絶対、こんなの認めねえ」
 その両手を押える大人たちをもう一度振り払って、彼はミョーコのほうに向かってそう呟く。
「……涙なんて、でねえよ」
 鋭く立てられた髪の毛をぐしゃぐしゃに引っ掻き回して、苦々しく吐き捨てる。周りの大人はただ、彼を見る事しかできなかった。幼馴染が死んでも涙ひとつこぼさないその男子生徒を。

「あんまりあっけないから、涙なんて出ねえんだよ馬鹿元基!」
 近くの椅子を思いっきり蹴飛ばして怒りを発散するように八つ当たりしていた。蹴られた椅子は近くの椅子も巻き込んでぐしゃぐしゃに倒れる。その破壊的なまでの力に、そしていじらしいほどの不器用さに、大人たちは彼を止めることさえ忘れていた。彼は、彼なりに親友の死を悲しんでいることを悟ったのだ。


「やめて悠久!!」
 暴徒と化した悠久を止めた鶴の一声は、ミョーコから発せられた。彼女の声がハルヒサの鼓膜を震わせた一瞬、彼は動きを固まったかのようにぴたりと止めた。そして次にゆっくりとミョーコのほうを向く。あの野獣のような目が、ギロリと動いた。
 ややあってミョーコは少し悠久に近づき、目を逸らしたまま呟いた。
「帰ろう、悠久」
 それでもミョーコには、そういうハルヒサの不器用振りがきちんとわかっていのだ。人様の前で彼が泣くわけがない。悲しいなんていう事場を吐くわけがない。現に彼女はハルヒサのそういう弱音を吐く瞬間を一度も見たことがない。

 そう、いいのだ、それでいいのだ。
 今更ハルヒサが大衆の目の前で涙こぼしてもらっても、困るのは彼女なのだから。ミョーコはハルヒサの手をとり、今度はじっと彼の目を見つめた。瞳に光が映らないのは怒っている証拠だ。そういうときこそ、ぎゅっと手を握って一心にその瞳に明るさが戻るまで見つめ続ける。彼女はいまだ目から大粒の雫をこぼしていたが、眉間にしわを寄せて目を大きく開き、頭ひとつ分離れているハルヒサの目を見つめた。

「ね? 帰ろう、悠久」
 ぷいと視線を逸らし、返事もせずにハルヒサは真っ直ぐ出口のほうへと向かっていった。それに吸われるようにミョーコも大またで大衆を割っていく。その場から背を向け、逃げるようにしてガラス張りの自動ドアから出て行った。


 外には白い花輪がいくつも並んでいる。黒いスーツに身を包んだ大人が暑そうに襟元をパタパタと揺らしている。彼らはそこから逃げた。その泥沼から這い上がるのはずいぶん大儀だ。いくつもの視線の網をかいくぐっていかなければならないし、何よりも彼女ら自身、ずいぶん重いものを背負ってしまった自責の念がその双肩にのしかかる。









あなたは今、幸せですか?






inserted by FC2 system