02:君がいない今日 修学旅行から帰ってきたのは金曜日の夜だった。修学旅行最終日はクラス別行動をし、そのままクラス別に新幹線に乗って帰る。別々の新幹線、と言っても時間的に2本の電車にクラスが分けられていく寸法だ。つまり、はじめの新幹線に2・4・6組が乗り、約1時間後にある次の新幹線に1・3・5組が乗る、という訳だ。こういう帰り方になってしまったのも運悪く新幹線の手配の都合である。 はじめの新幹線に乗った生徒が次の新幹線に乗った生徒を駅構内で待つことは混雑のことを配慮していたため禁止されていたので、2組のハルヒサと6組のミョーコは5組のモトキを待たずに一緒に帰路に着いた。 その時は、まさかモトキが“あれ”に選ばれていたなど夢にも思わずに。 月曜日の朝が来た。 この日は何かがおかしかった。 3年生は学校に来たらすぐに体育館に行くよう指示がでていた。 この日、ハルヒサとミョーコも違和感を感じ取っていた。 モトキが、休みだというのだ。 モトキは決してスポーツ少年ではなかったが、風邪をひくような子でもなかった。 しかも応対に出たモトキの母親の様子が変だった。 いつもは優しそうな細い目で(モトキはこの遺伝子を受け継いだのだろうといつも2人は思う)にっこり笑うのに、この日は違った。目に、涙すら浮かべていた。 ハルヒサとミョーコは胸に違和感を抱きながら2人で学校に来た。 ひとり欠けた違和感を保ちながら。 「今日は皆さんに、残念なお知らせがあります」 この中学校が創立して以来、一度も立て替えられたことのないこの体育館は実にすたびれていて、どんなに照明をともしても暗い。いつもなら馴れているはずなのに、その暗さは以前より増して轟々とした暗闇に見えなくも無かった。床にしてみれば体重の軽い生徒が歩いただけでぎしぎし言う。ともすればいつか穴が開きそうな床だった。 整列なんかしなくていいからとりあえず話を聞け、と言われたので、生徒達は思い思いぎしぎし音を立てる床に腰をどかりと落とし、ステージの上でマイクを握る学年主任の先生を見つめた。先生は背広のポケットからハンカチを取り出して、暑くもないはずなのに額の汗をぬぐった。 「3年5組の皆さんが、第68番プログラムに選ばれました」 何の前置きもなく唐突に言うものだから、むしろ逆に拍子抜けしてしまって、その言葉がどんな意味を伏せ合わせているのかさっぱり見当もつかなかった。生徒達は肩身狭そうにステージの上に立つ学年主任教師をこぞって穴が開くほど凝視し、それから金魚のように口をパクパクさせた。 ミョーコは、学年主任の第一声から間もなく数分が経つというときにようやく全ての理由がわかった。 その時はテニス部の友達と集団で座っていたが、誰とも目を合わせずすぐさま壁側でひとり突っ立っているハルヒサを見た。 ど う い う こ と ? 彼と目があったのを確認すると、口をその言葉の形にした。しかし言葉は見えない透明で頂がはるか上のほうにあるような高い壁に阻まれて届かない。このあと続く学年主任の先生の言葉も、周辺の人々が絶句したり泣き出したりする情景もまったく無視して、ミョーコとハルヒサはほとんど同時に駆け寄った。 「ねえ、どういう事?!」 「知るかよ!! 元基どうしたんだよ元基は!!」 「あたしに聞かないでよ! ていうか……ちょっとまってよ……ねえ、嘘、でしょ?」 「馬ッ鹿! 当たり前だろ!? 元基が、プログラムに……ありえねえから!!」 「そうだよね、うん。嘘……だよね!! やだなぁー先生ったら……」 あたしたち騙して何が楽しいの?と付け加えようとしたが、叶わなかった。涙が目を覆い零れ落ち、嗚咽がのどから出る声を完全に遮断してしまったからだ。嘘という単語が頭の中をぐるぐるとものすごい勢いで旋回している。ミョーコは口元に手を当てて下を向く事しかできなかった。 「ぜってえ……ありえないから……」 ミョーコの肩を力一杯ぎゅっと握るハルヒサの視点は、もう一箇所に定まってはいなかった。常日頃自分へ向かってくる反感や疎外感に抵抗するので精一杯すぎて感傷的になることなど皆無に近かった彼の人生だが、ここに来て初めて、涙あふれんばかりの衝撃を受けた。彼は築40年以上過ぎた体育館の暗い天井を睨みつけた。こうでもしなければ、全ての感情に自分が押しつぶされそうな気がした。 「――皆さんは嘘だと思っているかもしれませんが、これは、残念ながら事実なのです」 追い討ちをかけるような学年主任の声がした。 「嘘でしょぉ……?」 か細くなったミョーコの声が、つぶれた。 彼女の所属しているソフトテニス部は、決して部員の多い部活ではなかったが、少なくとも5組に2人テニス部員がいた。 あの子達も、もう帰ってこないの?――3年生の引退試合があと1週間程度で始まる。ダブルスを組んでいた5組の2人はテニスの引退試合を前に、人生を引退した。 涙があふれてくる。スカートのポケットに入れていたハンカチを取り出してはおもむろに顔に押し付け涙を抑えた。 ハルヒサは相変わらず視点の定まらない顔でゆっくりと首を振った。それは子供がおもちゃを買ってくれない大人に対するただこねと同じように、意味もなく自分の考えと通そうとする稚拙なものに近かった。 そういえば5組の人間はこの場に誰もいない。5組の人の中には、去年ハルヒサと同じクラスだった生徒が数人混ざっている。つまりたとえクラスから疎遠な彼でも顔見知りがいないわけではない。仲良くしていたわけではないが、何かと記憶に残る人たちばかりだった。 2人とも、頭の中を取り乱されて混乱していた。 顔見知りや友達が多くいる5組がプログラムに選ばれたという事は、優勝者――無事にここに戻ってくる人間――は必然的にたったひとり。このことは小学校の社会の授業で勉強した一般常識だ。将来、対外国の戦いが起きたときのための唯一の徴兵制?悲しみだけ置いていくこのプログラムが?彼らのみならず、体育館中が混乱していた。 「元基、かえって来るかな」 ふと、ミョーコが小声で呟いた。 もちろんハルヒサにとってもモトキは帰って来て欲しい。だけど、“彼らが知ってる元基”は本当に帰ってくるのだろうか?クラスメートで殺し合いをするその気持ちがどんな色を施しているのかわからない。それでも、2人は我が侭ばかり呟いた。 「帰ってくる。元基だから」 確立しない理由も、我が侭だからかもしれない。 「そうだよ、ね。元基、帰って来るよね。でも……そうしたら……他の子も……あたし、5組に友達いっぱいいたもん。皆いなくなっちゃうなんて、やだよ? 元基がいなくなるのも、もっとイヤ!!」 「俺だってそんなのイヤに決まってんだろ! ……大丈夫、俺たち3人がバラバラになるはずないだろ? だって、ずっと一緒だったじゃねえかよ……今更バラバラになるはず、ないだろ、な?」 それ以降、体育館には行き場のない嘆きの声ばかりが充満して、非常に重苦しかった。それはまるで梅雨空の分厚い灰色の雲のように。ぬぐってもぬぐっても晴やしない、曇天のように。 「なお、ローカルテレビで見た人もいるかもしれませんが、プログラムは既に終了しております。明日各家庭でお通夜が行われるようですが、参加する際にはきちんとした身なりをし、友達であったことを誇りにして行って下さい」 学年主任の先生は最後にそう告げ、ステージから降りた。 「お通夜……だって」 「元基のお通夜なんてないからな」 「……わかってる。……わかってる……」 「じゃあ泣くなよ」 「じゃあいい加減こっち向いてよ」 「手、痛いんだけど」 「あたしそんな馬鹿力じゃないもん」 ハルヒサの大きな手を力いっぱい握ることでしか、自我を保ち続けることが出来ないような気がしたミョーコは、涙を止めることすら忘れてひたすら呆然とし続けた。胸が、軋むようにキリキリと悲鳴をあげる。嘘、嘘、嘘。吐き出す言葉はいつも同じ。目の前が真っ暗になった。 「元基、きっとあたしたちに固い八つ橋買ってくれたよね」 「……ああ」 「元基、プログラム中におなか空いて食べちゃったかなぁー」 「……」 どうしよう、涙が止まらなかった。 どこを見るとも無く、まるで地に打ち上げられ生気を失った魚の目のようににごった色を帯びた瞳でミョーコは体育館をぼんやりと見つめた。くるりと身を反転し、ハルヒサを背にしてから体育館中で起こるむせび泣きを聞いた。墓場で沸きあがるような、声、声、声。冷たい何かがひやりと彼女の首元を触るが、見向きもしなかった。いや、出来なかった。はたして、この現実をどう直視しろというのだろうか。 「困ったなぁー。あたし、元基が固い八つ橋買ってきてくれるって期待してたから、普通のしか買ってないよ。どうしよう」 「……」 相変わらずハルヒサは黙りこくり、彼自身の前に立ち尽くすだけのミョーコを見下ろした。そのいたいけな背中に課せられた荷物はあまりにも重すぎて、どうしてこんなことにならなければいけないのかと疑いたかった。 創り出されたものは、八つ当たりのための神様。 なあ……恨むぜ? ハルヒサは小さな背中を見つめながら目を固く瞑った。 「嘘、だよ、ね」 か細く呟かれた言葉は切なくて小さく、その他大勢が吐き出す嘆声やため息の中に吸い込まれては消えていった。全てが嘘に思えてくる。目の前で起こった音ではないから、そう、実感が沸かないのだ。いつの日かひょっこり帰ってきて、またあの細い目を一層細くさせてにこやかに「ただいまァ。えへっ、驚いた?」と言うに違いない。そう信じたかった。 嘘。 嘘。 嘘。 ハルヒサはミョーコの肩をぐっと引き寄せて自分のほうへと近づけた。それによって全てが決壊し、どんよりと積もった厚ぼったいすすり泣きの中に、割れ裂けんばかりの雷鳴が落ちた。 「いやあああああああ!!!」 あなたは今、幸せですか? |